JOURNAL

NAOKI WAKITA

後編

99%は職人の技術 残り1%は神様のさじ加減

辻さんの工房で修行を重ねていくうちに、オルガンにまつわる知識や技術を徐々に習得していった脇田さん。徐々に重要な仕事を任されるようになった2年後、辻さんが「工房を見学に来た方にオルガンのオモチャみたいなものを販売してみようか?誰かアイディアを出して作ってくれないか?」と工房の職人に持ちかけてきたのだそう。後編の話はそんなところからスタートします。

 

よく考え、手を動かし、試行錯誤の末に

工房の中でのアイディア選手権のような企画を「これは面白い!」と感じた脇田さんは、辻さんから、ヨーロッパには紙に穴を開けて音が出るという手回しオルガンがあるという話を聞く。普段から「モノづくりは頭を使って考えることが大切」と教えられていたこともあり、早速手回しオルガンの試作品を作り初めていったという。

「1987年に手回しオルガンの第1号ができて、それは笛の部分は先輩が作ったものを借用したものでした。かろうじて音は出たのですが数秒しか鳴らない、本当にオモチャみたいなものでした。第2号からは笛の作り方を教わりながら3年ほどかけて改良していったんですが、結局それも上手くいかず。第3号の試作品を作り始めてからも、どうしてもあと1歩のところで上手くいかないんです。何せ正解がわからない。何が間違っているか、今の状態が完成に近づいているのか遠のいているのかも分からないんです。そんなことを3年ほど続けていくうちに行き詰まってしまい……」

 

いろんな経験のストックを武器に

そこで何か資料やお手本になるようなものがないかと、東京のオルゴール博物館を訪ねた。そこで「最近、山梨県の清里にできた『萌木の村』内のオルゴール博物館に手回しオルガンがあるらしい」という話を聞いた脇田さんは早速現地へ足を運んだ。

「そこで『萌木の村』の代表である舩木上次さんに小さな手回しオルガンの内部を見せていただいたんです。見た瞬間、すべてが繋がったような感覚がありました。なんと今自分が作っている第3号と構造が同じだったんです。でも部品の形や材料が少し違っていて。それが上手くいかなかった原因だと瞬時に悟って。それで嬉しくなって、興奮したままの状態で岐阜の工房まで帰って作り始め、それでこの第3号が初めて1990年にでき上がりました」

やがてでき上がったものを舩木上次さんに見せたところ「オルガンの内部を1度見ただけで作れるなんてすごい!」と感動されたという。「日本でこんなことができるのはワッキー(脇田さんのあだ名)だけだ」と絶賛され、早速同じものを作ってほしいと注文を受け、さらには今後専門家としてオルゴールの良し悪しを判断するために買い付けに同行してほしいという依頼を受けました」

 

すべての工程を1人でやる楽しさ

そんな関係になって、数年間付き合いを深めていくうちに「うち(清里の萌木の村オルゴール博物館)に来て、オルゴールのメンテナンスや修理をしてほしい」と頼まれた脇田さん。普段は展示しているオルゴールのメンテナンスを担いながら、個人で請け負ったオルガネッタの制作もここで作ってもいいという条件のもと、辻さんの工房から「萌木の村」へ職場を移す運びになったのだそう。

「オルガン制作は分業制で行うことが通常で、すべてのプロセスを1人ですべて行うわけにはいかないんです。大きさも1人でどうこうできるようなサイズではないし。その点、オルガネッタ制作は最初から最後まで全部自分1人の手で行うことが可能。自分はそういうモノづくりの方が性に合っているんだと常々思っていたので、お世話になった辻さんにお礼を言って11年働いた工房を後にしました」

 

博物館としての使命 

そして今では萌木の村でオルゴールの修理やメンテナンスを行ないながら、それ以外の時間はオルガネッタ作りを続けている脇田さん。

「オルガネッタの制作だけじゃなくて、オルゴールのメンテナンスはとても大事にしている仕事です。自分は古いものほど、良い音で聴いた方がいいと思っていて。メンテナンスする楽器が製造された時代より今の方が技術は進歩しているし、新しい材料もたくさんあるけど、楽器は美術品と同じで、なぜだか分からないけど昔の方が不便だった分、作った人の感性が豊かで優れている箇所がいくつもあるんです。人間の能力は材料や道具が発達していない時ほど、感覚がセンサーのように研ぎ澄まされて、その魂がモノに宿っているんじゃないかと思うんですね。だからきちんとメンテナンスして、その時の音を今の人に聞いてもらうのが、ミュージアムの責任だと思っているんです」

 

全ての部品に命が宿る

そんな脇田さんにオルガネッタを作り続けていることの意味を伺うと。

「どこにもない、自分だけのものを作ることは、自分の分身を作るようなものなんです。脇田直紀という人間の、それまでの経験、知識、完成、技術、性格、考え方、そういった全ての1つ1つの部品作りの反映されて、それらが有機的にまとまって作品として完成する。無数の細胞が集積されて肉となり骨となり、脇田直紀という人間になっているのと原理的には同じです。一般的な楽器作りはデザイン・企画~装飾・塗装、音作りなどそれぞれの専門家が分業で担当することが多いですが、全てを1人で作るというのはそんなイメージです。」

「今までオルガネッタをトータル46台製作していますが、すべてのモノにカルテがあるし、ゼロから自分1人で作り上げたモノだから、細部まで覚えています。私がいなくなっても楽器は残る。そして音を作る要因の99%は原因が伴った技術的なものだけど、残りの1%は神様のいたずらによる偶然みたいなもので変化するんです。自分と、自分ではどうしようもできないもの、それが混ざり合ってできるオルガネッタという楽器。これを作り続けることは、自分自身にとって特別な使命感や責任感があるもの。仕事を超えた大切なものであるといえます」

INTERVIEW & PHOTO:Daisuke Udagawa(M-3)
TEXT:Yumiko Fukuda(M-3)

脇田直紀

http://www.moeginomura.co.jp/

萌木の村 博物館 ホール・オブ・ホールズ パイプオルガン職人
脇田直紀
http://www.moeginomura.co.jp/
http://orgenetta.com/

1965年生まれ、東京都出身。
幼稚園から高校生まで一貫して玉川学園に通う。高校卒業後は岐阜県の辻オルガンで10年以上パイプオルガン製作を学ぶ。並行して20歳頃に自動楽器に興味を持ち始め、1990年に手回しオルガン「オルガネッタ」を1人で完成させる。「萌木の村」社長の舩木上次さんに誘われたことがきっかけで独立し、「萌木の村」内に1995年に自身の工房を構える。楽器の修繕作業を日々行いながら個人や企業からのオーダーを受け、分業制ではなくただ1人でデザインから製作までを手掛けている。

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